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カテゴリー:術後の治療

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漆黒の悪魔


術後数日してから執刀した柏原先生が病室に現われて1枚の写真
を置いて行った。B5位の大きさだった。



普段、陽気でお喋りな柏原先生、、、いつも外来と病棟を行ったり
来たりして忙しい先生。珍しく言葉少なに「切除した病巣見る?」
って言ってベッドの上に置いて立ち去った。


ウンともスンとも言ってないのに置いて行った。ゆっくり手にとって
見てみた。。。紛れもない私のお腹の中から切り取られた大腸!!
上行結腸~横行結腸~下行結腸~S字結腸、、、つまり全部!!
お腹の中にあったように置かれて撮影されていた。先生の話だと
4cm位だけ正常な直腸が体内に残してあるらしい。




おどろおどろしかった。。。切り開かれた内部は出血で真っ赤と言う
より、腐って真っ黒!!まるでコールタールを吸ったスポンジのよう
だった。そしてとても人間の大腸とは思えない程巨大化していた。
こいつが腐ってお腹の中を汚染したんだ、、、こいつのお陰で2ヶ月
以上、苦しみ、のた打ち回ったんだと思った。。。

まるで 「漆黒の悪魔」 だった。

妹は現物を手に取って見たらしい。触るとボロボロ崩れたって言ってた。
醜かった。この世のモノではなかった。憎かった。自分が可哀相で泣いた。
またボロボロと涙が溢れ出た。




「漆黒の悪魔」 は現代医学の何物にも屈せず、まるで嘲笑うかのように
私の体内で暴れ回り、やがて自分で自分を食い尽くして息絶えた。
ふざけた奴だと思った。人騒がせな奴だと思った。こいつは今、大学病院
で間違いなくホルマリン漬になってるだろう、、、チャンスがあったら
面会に行ってやろうと今は思っています。もちろんこの頃は打ちひしがれて
いたからそんなこと考えもしなかったけど、、、。









相変わらず食べれなかった。次の食事こそはって思うのだけど、唾液が
出ない。噛むと貧血を起こす。飲み込めなかった。1月の半ば頃の話。
週に1回、この献立表を見て中身をリクエストするのが楽しみだった。
、、、もちろん食べれなかったけれど、選ぶのは嬉しかった!!
食べられなかったけど選ぶのは嬉しかった




固形物が入ると胃や小腸が、なくなった大腸の空間で暴れてあちこち
ぶつかって痛かった。。。とにかく痛かった。先生や看護師さん達は
それでもお構いなしにうるさかった。とにかく食べることについては
しつこかった。





極度の栄養失調で血管が痩せ細ってもろくなり、針を入れる場所が
なかった。。。中心静脈からは高熱&汗で病院着の中が蒸れ、黴菌が
入ってしまってできなかった。。。看護師さん達が点滴を入れる場所
探しで苦労していた。


「アッ、そうだ。ココがあるっ」



って看護師さんが手首に巻かれたネームタグを切り取った。



その部分だけは1回も針を射してなかった。。。入院中はずっとしてる
モノなんだけど1月の半ばにはとうとうココしかなくなって切り取られた。


なぜか退院までなくならずにあった↓。
実は1月の半ばに切り取られた






高熱が続いた、、、計画的な清潔手術ではなくて緊急のそのまた緊急
、、、云わば汚染手術、、、お腹の中をかなり洗ったらしけど、“膿溜り”
が数箇所あってソイツが悪さをしていた。2日に1回程度のペースで
脇腹のチューブ(ネラトンとかって先生は呼んでた)の位置を換える
簡単な手術がCTの透視台の上や病室のベッドで行われた。ネラトン
の径は日によって変えられた。かなり太いのを使う日もあれば細いので
済む日もあった。。。お陰で今の私の脇腹には散弾銃で撃たれたよう
な傷が残ってる。。。まるでランボーみたいです。



意識も普通だし、思考力もかなり普通に戻って来てたからこの時期から
はかなり覚えてる。

ブスっと局部麻酔を脇腹に刺し、金属のワイヤーをお腹の中に通して
道を作る。ワイヤーを抜いてできた道にゴムのチューブを通す!!
最後に傷を縫う。。。痛くて痛くて地獄だった。

膿溜りは膀胱の周辺に数箇所あった。脇腹から通すチューブはかなり
長くて、その先はペットボトルのような容器につながっていた。黄緑
色の膿が毎日、毎日、容器の中にたくさん溜まっていった。







柏原先生は外来の合間に看護師さんを連れて突然病室にやって来る。
ウトウトしてるといきなり「キョクマ」って看護師さんに用意させてる。
最初は何のことだか分かんなかったけど、「キョクマ」って言った時
は痛いことをされるんだって学習した。いちいち麻酔なんか打ってられん
から時々麻酔なしの時もあった。この先生かなり神経質、、、縫い方
が気に要らなかった時なんか、ひとまず外来に行ってからその後、時間に
関係なくやり直しにやって来る。



「麻酔しないからねっ、ちょっと痛いよ!」



ちょっとじゃなかった、、、柏原先生が病室に来るだけで熱が上がった。
必ず何しに来たか聞くようになった。



「今日、痛いことするの?」



先生が入って来ると反射的にベッドの柵を掴んで身構えていた。。。


熱は40℃前後を周期的に行ったり来たり。朝方、昼頃、夕方、寝る前
の1日4回程度のサイクルで私を苦しめた。動けなかった。ただただ
ベッドに張り付いてるしかなかった。






この頃から辛くて厳しい社会復帰のための治療や訓練が始まった。
それまで優しかった先生や看護師さん達がある日を境に急に冷たくなる。
まるで皆、申し合わせたかのように何もしてくれなくなった!!
まだろくに歩けないのに、、、絶望感、孤独感、生きて行く気力は益々
失せて行った。
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Security
cyborg 005
2023シーズン、まだ生きてる

☆彡全日本スキー連盟公認
  指導員、A級検定員
☆彡日本スポーツ協会公認
  スキー上級教師
  スキー・スノーボードコーチ2

06、12月に劇症型の潰瘍性
大腸炎(UC)
で大腸全摘手術を
受け、オストメイトとなる。

31年間勤務したスキー学校を
退職し現在フリーで活動中。

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