相変わらず高熱と貧血と激痛の毎日。
毎日、毎日、褥瘡(ジョクソウ)の手当てに看護師さん
がやって来る。ゴシゴシ洗われて悲鳴をあげるしかない。
かなり気合いを入れないと我慢できない程痛いから、、、
処置の時間は私の体調や心の準備に合わせてくれてた。
やっと終わったかと思うとこんどは担当医のカッシーが
脇腹のチューブの位置を換えにやって来る。この頃発して
いた言葉は、、、
「う~っ」とか
「ギャーッ」とか
「痛てぇ~」ばかり、、、
、、、まるで拷問だった。
回診はお腹の傷を流水でジャージャー洗われ吸引される。
まだ傷口が3ヶ所大きく開いていて、、、処置の度に筋膜
が引きつって痛い。どこもかしこも痛みだらけ、、、
どちらの傷も食事が上手く摂れていないので養分が足りずに
治らない。。。
ベッドからたった3mの冷蔵庫に行くのに数分かかる。
動いてみたい気持ちはあっても高熱が何もかもを奪う。
生きて行くって意味は2通り、、、
一つは人生のこと、、、
人生だとか生き方だとか、、、そっちの意味の生きて行くっ
てのは考えてる余裕なんてなかった。もちろんスキーのこと
なんて頭の隅にさえなかった。
もう一つは単純に生命の維持、、、
自分の命を守る、、、この頃ってただそれだけだった。
せっかく助かった命を一時は絶とうと思った時期もあったけど、、、
、、、死はやっぱり恐ろしい。こんな身体で生きながらえる
のは惨めだと思いながらも生に対する執着はいくらかあった
のかも知れない。
生命の維持は人間の本能だから、、、
痩せ細って体温計が腋の下に挟めなかった。毎朝検温の度に
どこかになくなってしまう。
↓タオル地のガウンすら持ち上げる力がなかった。

全然思ったように食べられないけど、3度3度の食事は容赦
なく出て来る。妹が買って来てくれた金属のフォークやスプ
ーンは握力がなくて使うのがしんどかった。結局コンビニで
もらうような薄くて軽いプラスチックのスプーンや割り箸の
世話になっていた。
↓
目は食べたいんだけど、、、中々食えん。頭の中は瑞々し
い果物が朝から晩までグルグルしていた。

特大の床ズレのお陰でベッドに寝てるのが辛かった。
痛くて車イスにも座れない、、、歩く訓練が仕方なし
にだけど始まる。
点滴棒に摑まって、、、どちらかと言えば自力で歩い
てるんじゃなくて惰性で行き当たりばったりにヨロヨロ
してるだけ!
病室から10m程のナースステーションの前を通り、
そこからさらに5m程先のC4談話室の前にある長椅子
まで行くと貧血で目の前が真っ白け!!
冷汗が出て止まらない。そこで15分ばかり休んでまた
病室に戻る。看護師さん達はナースステーションの中で
ニヤニヤ笑ってるだけ、、、何度も転んで情けなかった。
↓
最近C4を訪ねて撮影したものだけど、みんなここから
私の様子をうかがっていた。

↓
C4の談話室前の長椅子。自力で歩くようになってから
はここが大事な休憩場所だった。画像奥がB棟になります。
A棟に行くには真っ直ぐ進んでB棟のエレベーターに行か
ないとならない。

↓
この時期に歩けた距離を
青線にしてみた。
赤丸は私の居た
病室辺りです。

往復30mをヨロヨロと歩いて病室に戻り、息を整えて
また談話室まで行って帰って来る。合間に一口飲むカル
ピスやヤクルト(不二家のネクターの代わり)はとにかく
美味かった!
食べることと動き回るしか道はない、、、健常な時には
当たり前の行為がこんなに過酷だとは夢にも思わなかった。
左右の脇腹から出てるチューブの本数はこの頃、、、
右の脇腹に2本、左の脇腹から1本だったと思う。右の脇
腹のは片方の先がガーゼに、片方の先はペットボトルみた
いな奴に繋がっていた。歩くのにゴロゴロとじゃまだから
点滴棒の下にぶら下げていた。
左の脇腹のはレモン大のカプセルをお腹に固定してそこに
はまっていた。どのチューブからもお腹の中の膿が止めど
もなく出た。洩れた膿がガーゼをビショビショにして下着
を汚す。
床ズレからも浸出液がドロドロ出るし、肛門からも術後に
残った浸出液が大量に出た。板状の平らな紙おむつをお腹
に巻かれ、お尻にも当てられていた。
正直言えば紙おむつなんて、、、屈辱以外の何者でもなかった。
臭気の強い浸出液に絶えず悩まされた。下着も腹帯も病院着
もいつもグショグショだった。妹はいつも明るく笑って洗濯
物を交換に来てくれたけど、、、なんぼ妹だって申し訳ない
気持ちでいっぱいだった。
惨めだった。とにかく惨めな気分で毎日毎日が過ぎて行った。
後から母親に聞いた話、、、
母親が妹にお金はかかっても仕方ないから汚れのひどい物は
捨てて新しい下着を買いなさいって助言したらしいんだけど、
妹は断固として、、、
「お兄ちゃんの下着の汚れなんてへ~ちゃらよっ!」
って聞かなかったらしい。
ありがたいやら情けないやら、、、気持ちは複雑だった。
高熱で夜中や朝方に目を覚ますと、近くの病室から葬儀屋
さんらしき真新しい白衣を着けた人達が亡くなった人を運
び出してくのを何回か見た。
やりきれなかった。
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